ごあんない
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日常を生活していて、どうしておこったかわからない事象や、割り切れない感情が発生することがあります。
そういうことについて考えを巡らしていると、時間がいくらあっても足りないし、あまり深く考えないことが美徳とされているので、できればみんな考えたくなんかない。 そこで、それらの矛盾を吸収する装置が必要になってくる。 たとえば「あの世」や「幽霊」みたいなよくわからないものを設定することで、答えのわからないことの責任をすべて押し付ける。 理解できるように世界の見えるところだけをカッチリ作っておいて、残った歪みをそこに担当させる。 怪談の需要の第一段階は、まずそのあたりにあって、民衆をコントロールする手段や道徳説話のようなものは、二義的なものだと思う。 というようなことを考えながら、ほん怖クラブを見ました。 番組内では、便所の怪談に対して「覗いていたら憑依されて危なかった」みたいな解釈をしていて、それって他者との境界線が曖昧になることへの不安をストーリー仕立てで解消するとかそういうことだと感じた。トイレ覗いちゃいけないよっていう常識っていうのは、プライバシーと好奇心の狭間で暫定的に引かれている国境線でしかなく、たとえば中国のトイレにはドアなんてない(俺は見たわけじゃないけど)。だから常識の裏返しとして怪談が存在するのかとか思ったり、制作サイドは簡単な道徳番組を意識して作ってる感じがあるので、ほん怖クラブはたまに見てます。 特にファーストシーズンの序盤は、稲垣さんが「吾郎さんはどんなときに女性って怖いと感じますか?」みたいな質問をガキどもから受けるところが面白かった。 ちょうど不祥事が起こって復帰しようという頃だったと思うので、きっと事務所による稲垣さんいじめの一環だったと想像するんだけど、でもそんな稲垣さんにこそ理不尽な現実の歪み解消としての怪談を与えられたということが非常に興味深いですよね。 追記。 逆に、宗教というのはそういったふだんわざとうまい解釈をしてこなかった場所を意識して説明をつけるためにあると思う。 だけどごっちゃにされることがある。 光を当てるためにいろんな解釈をしたのにも関わらず、それが新しい考え方だったり、なじみの薄いものだったり、それまで信じられていた間違いに反するものだったりすると、うまく受け入れられにくい。 そこで、本来は正反対のものであるはずの迷信と宗教が、それぞれ近いところにあるような勘違いを生む。 無用な威厳と説明不足が理由なのかもしれないが、俺は宗教家をやったことがないのでその苦労はわからない。
by exitemegane
| 2004-11-01 19:52
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